上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
「ルサンチマン」という言葉がある。
意味としては単純に「怨念」「復讐心」「羨望」とも訳せられることが多いが、これだけだとちょっとわかりづらい。wikiで調べてみると「強者に対する、それをなしえない弱い者の、憤りや怨恨、憎悪、非難の感情をいう。この感情は自己欺瞞を含み、嫉妬や羨望から来る」とある。
どちらにしてもネガティブなイメージの言葉ではあるのは間違いない。
元々はキルケゴールの言葉らしいが、圧倒的にフリードリヒ・ニーチェで有名になった言葉である。

この「ルサンチマン」を良く表現するたとえ話としては、イソップ童話の「キツネとブドウ」の話が良く語られる。高いところにあったブドウの房をいくらジャンプしても取れなかったキツネが最後に「どうせあのブドウは酸っぱいに違いない!」と捨てぜりふを吐いて立ち去って行く話である。

この寓話の面白さは、いつも周囲を欺く狡猾なキツネが自分の希望が叶わなかったときに自分自身をも欺いて負け惜しみを言う「おかしさ」にあるのであろうと思う。

自分の思いや希望が叶わなかったときに、その満たされない心を埋めるために、その思いや希望の相手や目的を卑下したり矮小化したり落とし込んだりしてしまうことは、自分を守るための一種の「合理的行為」として心理学の上では認められているらしい。
それはそうだろう。万人がそれぞれの希望や期待に応えられる世界は絶対に無いし、一個の人間だけでも万の希望や願望があるだろうし、希望はすべてかなうことはありえない。
なんでもヒトは昔の嫌な記憶は忘れる、または逆にいい思い出に変えてしまうようにできてもいるらしい。
とうぜん思いや希望が遂げられなくても、時間が経てば嫌な思い出として忘れるか、逆に若かりしころの蹉跌として記憶に留めるか、ということなのであろう。

ここまで書いて思うことだが、こういう心理学的な装置の説明や分析には自分は正直興味はあまりない。そんなことはどうでもいい。
問題は本来の「ルサンチマン」である。
最近は漫才師や漫画の表題にも使われるポピュラーな言葉となってしまったが、自分の中ではどうもこの言葉の概念にある種の「ひっかかり」を感じて十数年経っている。
未だに自分の中で解決できないやっかいなテーマとなっている。

所謂、自分だけの「人生論」的な「問い」でも未だ解決できていないし、前述のニーチェの言わんとする「ルサンチマン」に関しても、まったくずっと考えていても解決できていないテーマとなっている。
もっと正直に言うと、この問題が解決できなくて考えることを途中で止めてしまったようなところもある。
もしくは考えることを止めようとした時に偶々考えていたテーマがこの「ルサンチマン」の問題だったような・・・。

それまではマルクスとかヴェーバーとか、割と人間の「外」の問題、「社会」の問題としての思考を追っていった(所謂、社会科学ということです。卒論のテーマがそっちだったし)のであるが、いわゆる「生の哲学」として、人間内部の思考の問題に関わる思考であったため、「ヒトゴト」みたいな客観化できずに、ストレートに自分の問題として、自分を実験材料にするように、自分を解体しながら自分を分析していくような、けっこう危ない作業を強いられながら、「思考」していたように思う。
まあよくよく考えると、「思索する」ということは、そういうある種の危険と隣り合せであるのは当然なのであろうが。

で、「ルサンチマン」について、何がわからないのか?

長くなったので次節で書きます。
                                                        (続く)
スポンサーサイト
学生時代に自分に問うたのは、①自分は一体何なのか?②何をしたいのか?③どこに行きたいのか?というようなテーマであったように思う。
普通は、この手のテーマは、学生時代の内は割と曖昧にぼかして過ごしていく。(敢えて避ける、触れない?)。
それでも敢えて上記の問いに答えるならば、
①まだ学生の内は何にでもない(逆にこれから何にでもなりうる?白いキャンバスみたいな?)
②就職する(社会人になる)にしたがい自分が何をしたいか決める
③行った先(就職した先)での価値観で自分の行きたい方向を決める(職階で自分を高める?)
というように企業なりの(社会の歯車として)価値観を与えられて、それに邁進するかたちで、人生の価値を与えられていくという生き方。
割と日本人に多い生き方である。
企業が与える価値観でそのヒトの人生観、価値を決めるという構造?
もちろん企業から価値を与えられる前に、自分の意志で自分が何をしたいかを決め、その方向に従った方向で仕事を選択し生きていくことができる、あるいは生きていこうとする強固な意志、高い理想を持ったなヒトもいるであろう。

ここまでは、割とフツウの話。全然難解でも無い。

上記の問いをもっと単純化して、以下の問いに変更してみる。

①自分はどこから来たのか?
②自分は何であるのか?
③自分はどこに行くのか?(何をしたいのか?)

これもまだ一見フツウである。悩んだとき偶に自分に問い直す事柄ではある。
実際は最も「深い」問いなのであろうが・・。

上記の問いの「自分」を「人」に変えてみる。

①人はどこから来たのか?
②人は何であるのか?
③人はどこに行くのか?(何をしたいのか?)

ウーン、幾分はちょっと「哲学的」な話になる。ちょっと難解なイメージを帯びてくる。
「人」となると客観化、一般化されて、ある種の普遍的な広がりを持ってしまう。

今度は「人」を「世界」に変えてみる。

①世界はどこから来たのか?
②世界は何であるのか?
③世界はどこに行くのか?(何をしたいのか?)

何か、環境問題を扱っているようなイメージ?
それでも思索的なテーマにはなっている。

次に「世界」を「日本人」に変えてみる。

①日本人はどこから来たのか?
②日本人は何であるのか?
③日本人はどこに行くのか?(何をしたいのか?)

もうほとんど日本人論のテーマである。
「日本人」論も極端に肉をそぎ落としたら、このテーマに凝縮できるのでは?


何が言いたいのか?
自分は、個々の事柄において、上記に対する「問い」を求める形で好きなことを追求しているだけのような気がしている。
これは要するに「存在」論であり、過去と未来という形の「時間」論であり、何にでもなりうるという意味での「自由」論でもある。

DSC_0056_4.jpg








これみよがしに難解版を立ち上げたものの、一度断絶した当時からの思考はなかなか戻らず、煩悶の日々が続いている。正直言って「考える」ということはキツイ。
言うべき言葉が見つからない状態である。
約20年間、ほぼ判断停止し無為に過ごした「つけ」は今更ながら大きいことを痛感する。
今は必死に20年前当時は一体何をどこまで考えどういう判断をしていたのか、必死に思い出している最中である。

このままだと収拾がつかないというか、ネタにもならないので、整理する意味で、漠然と思いついたことを適当に無責任に書き込みすることにする。後で脈絡が繋がるかどうか・・・。
で、とりあえずは少しずつ思い出した自分の立ち位置について確認してみようと思う。なんかこの状態というのはほとんどストリップするような恥ずかしさがあるのであるが・・。

まず学生時代(80年代前半)。
当時の周囲の状況は70年代の学生運動が頓挫し、その後のいわゆる「しらけ」世代も過ぎて、なんという世代というべきなのか?次の「新人類」世代とは確実に違う、遅れてきた「しらけ世代」ともいうべき何とも曖昧な世代に属するように思う。
ただ退潮していたもののまだ左翼的風土は色濃く残り、ちょっと大きな書店では哲学、思想系のコーナーの一角は確実に半分か何割かは社会主義系の書物が占めていた。当時はマルクスの「資本論」も岩波の他に大月書店版があったし、学生=左翼的との図式がぎりぎりやっと成り立つかどうか最後の世代であったかと思う。
ただこういう左翼系の書物が頻繁に読まれているかと言われればそういう風情はまったくなく、そういう意味では学生運動世代とは思想的にはほぼ断絶していたように思う。
先輩、同輩を含めて、政治的に反体制的な思考をするヒトはたくさんいてもマルクスやレーニンを実際に読破しているヒトは経済学を専攻しながら皆無であった。(その程度のレベルの大学といえば、まさにそうなのだが・・。)
考えたら70年代の終わりに旧ソ連のアフガニスタン侵攻やらで、本来理想国家であるべき社会主義国家が実際には平和を乱す覇権国家であったという幻滅感?更に確か当時日本海に戦闘空母「ミンスク」を配備とかで今にも北海道が侵攻される的な扇動的書物も発刊されたりして、社会風潮というか、一種の社会心理学として左翼的思想が端に追いやられる時期であったと思う。
一方で韓国で光州事件や70年代のカンボジアでの桁違いの大量虐殺(人類史上最大の虐殺が自分達の生きている時代、いわば同時代に行われていたというショック!)とかも明らかになったりして、社会主義や資本主義、民主主義に関係なく強権国家による国民への蹂躙があまりにも簡単に行われていることに目先のお堅い理論や理想は吹っ飛んだというのが正直なところではないだろうか?
当時の学生に「自由」と「平等」のどっちを選ぶか?と問うてみたら、間違いなく「自由」を選ばせた時代であった。
この「自由」も大きな正義としての「自由」(場合によっては自己犠牲もありうる?)ではなく、あくまでも「個人の自由」(個人的な快楽する自由?)いわば「何者にも束縛されない自由」であったように思う。
「個人の自由」は目先の損得に敏感ということでもあり、自分たちのこの時代から、いわゆる「スローガン」が通用しなくなったのではないかと判断している。
はっきり言って「さめた」世代であったと思う。(この場合の「さめた」は「覚めた」でもあり「冷めた」でもあり「醒めた」でもある。)
                                                         続く
標記の如く、当ブログのカテゴリーにおいて「難解版・・・一般人立入り無用」を立ち上げることに致しました。
趣旨と致しましては、とりとめなく思いつき思索した結果の誠に私的な披瀝の場とする予定であり、当然に至極難解かつ抽象的になることは避けられず、従来の即物的かつ趣味的、娯楽的内容とは著しく乖離することが予想されるため、あえて「・・・一般人立入り無用」と致します。
有り難くも本ブログにもそれなりの一定数の読者がついて頂いている状況下で、本来はこういう内容は別に専用ブログを新規設定して開陳していくべきなのでしょうが、残念ながら二つのブログを操るほどの器用さを当方は持たないため、敢えてカテゴリーの追加という手法で対応させていただきます。
このカテゴリーの時は一般の方はできるならば素通りして下さい。読んでもわからないと思います。





これを作るに至った事態は、そもそもはebapon氏の酒席の場での揶揄から始まる。
そのおおまかな内容は「オマエは考え方がハイデッガー的である。そのいちいち過去や歴史を引きずった考え方、判断では自由を失ってつまらない。もっと今あるものを在るがままそのまま受け入れて出発していくべきではないのか?」。いきなり刺激的な指摘。
彼はここでハイデッガーに対置する意味においてレヴィナスを取り出す。
ハイデッガー?レヴィナス?ハイデッガーの代表作が「存在と時間(唯と時)」であることくらいは知ってはいるが、レヴィナスになるとフッサールやベルグソンの流れの思想家くらいのことしかわからない。
この辺りの議論になると分野的にはまだ初歩であるものの学問として純粋に「哲学」に踏み入る内容であり、正直言って今の自分には相当に荷が重いのは間違いない。
議論として成立させることができるのか甚だ怪しくなる。
一方で過去を振り返って見た場合、主に二十代の頃、さすがにハイデッガーの話題はなかったものの、この手の話題(まさに哲学の話)を散々やって来たのも事実であった。
ただそれから20年以上、自分の中で敢えてこの手の話題を「忌避」し「封印」してきた経過がある。(なぜ封印したかについてはいづれ本稿で上げる予定)
今後いつかまた取り組まねばならない課題であることは承知しつつも、今になっていきなり急にそれを問うのか?
ある種の「唐突さ」に当惑し、驚いたのは事実であった。

一方で正反対の感覚の感覚も湧き起こったのも正直に告白する。
すなわち「機は熟している」のではないか?
彼の言はひとつのきっかけに過ぎないのではないか?それが証拠にここ最近の自分自身は糸の切れた凧のように漂流しているではないか?ここらで今一度原点に回帰すべきではないのか?
残された時間は意外に少ないのではないか?

彼のブログにおいて表現されたように、人知れず裏庭の井戸にこっそり隠していたある種の「アンタッチャブル」、「パンドラの箱」のような自分の中のある種の存在を否応無しに掘りおこさざるを得ない事象であった。

今まではこういう時には便利よく、自分には「林達夫的歴史観」「世界観」という、それなりの防御の法もあったのであるが、それさえもあらかじめ予想して逃げ場を塞ぐように、暗に「オマエは『林達夫的世界観』とは違うところにいるだろう。いまさらそれは根拠にならないぞ」と突き詰められた。
こういう時はebapon氏は特に非情である。
もうとっくにメッキが剥がれいるのは自分でも承知している。自分の胡散臭さの原因がせっかく積上げた思索を中途半端、無責任に放擲し、その後は外見は訳知り顔で振る舞いながら、実際は無為かつ怠惰に享楽的に過ごしたたことに起因することは充分わかっているつもりではある。
それでもいきなりこの言い方・・・・。思わず溜息がでます。

反発しつつも、今回の言をひとつの契機として、まずこの二十年の錆果て腐食した胴身を今一度洗い流し少しは気の利いたことが書けるよう精進していきたいと思います。
「ネット」で書くと考えた経過が保存され、「忘れ」にくくなるということもあり、また良い意味で逃げ場がなくなるので、それを今後の刺激にしていきたいと思います。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。